バッハの教会カンタータ
>カンタータ第109番
この2週間前に演奏された48番と同様に、アルトとテノールのソロを含むカンタータです。
当日の礼拝の聖句は、ヨハネ 4:47-54。死にかけた息子をイエスに救われる役人の話ですが、そこでは「救いを信じる」ということがテーマになっています。 ところが、第1曲の歌詞としては、マルコ 9:24が使われています。これは、悪霊に憑かれた息子を持つ父親が、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」とイエスにすがったのに対して、イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と答える。 すぐに父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(新共同訳聖書)と叫ぶという話です。直訳では「信じます、私の不信仰をお助け下さい」、いずれにせよ矛盾した叙述です。
このカンタータでは、そのような矛盾が、音楽の上でもテキストの上でも強調されているようです。
▼第1曲合唱曲の歌詞は上記の通りで、このカンタータの標題でもあります。ここでは2本のオーボエにヴァイオリンがからむ独奏楽器群と合奏の対比、コーラスの各パートのソロとコーラス全体の対比、一つのパートの中でのソロとテュッティの対比、さらにフォルテとピアノの対比など、 要するにイタリア式コンチェルトの手法が、歌詞の「信」と「不信」の対比に意味づけられているようです。コーラスの各パートに出てくる" hilf ! "の叫びが印象的です。
しかし、歌詞の叫びと哀願の心情は、むしろ合唱曲全体の旋律などに現れていて、実際に感じるのは、各パートが次々にソロをとり、それに合奏(合唱)が応じる華やかさです。とりわけ合唱では、4つの部分でSATBが次々に主導権をとり、飽きることがありません。
▼第2曲テノールのレシタティーヴォは、「信」と「不信」が歌詞の上でも音楽の上でも最大限に表現されています。これは、「マタイ」のペテロの懺悔を描くレシタティーヴォにも比肩する、音楽的描写の極致とも言えるものです。歌詞は1行ごとに、希望と絶望を揺れ動き、音楽はその度にpianoとforteを繰り返します。 (バッハの声楽曲で、このようにforteとpianoが指示されている例は珍しいそうです)。そして、最後の"wie lange?"は文字通り長いメリスマで歌われますが、ここに現れる絶望感には、思わず耳をそばだててしまいます。
続くテノールのアリアは、揺れ動く不安から絶望への心情が、付点のリズムや三連符のメリスマ、さらには大胆な転調や不協和音によって最大限に表現されている音楽で、聞いていて髪の毛が逆立つ思いがします。歌詞の上でも、最後の行の「恐怖が常に新たな苦痛を生む」など、現代の心理分析としてもそのまま生きるような内容です。
いかに疑いに満ちていることか、私の希望は
いかに震えおののくことか、私の不安な心は
ここでは特に「震え」"wanket"の部分が、三連符のメリスマで描写されています。そして、「苦痛」"Schmerz"は長く続く音符で表され、突然、破局的な不協和音が響きます。これは「バラバを!」の不協和音をさえ想起させるものです。
▼ここで曲想はがらっと変化し、4曲目アルトのレシタティーヴォは、神への信頼を説得し、安心させます。イエスの奇跡は今も生きており、例えどんなに成就までの時間がかかっても、神の約束に依り頼むことができるのです。
そして、5曲目アルトのアリアでは、今までの不安のかげりが消え、メヌエットの優雅なリズム、2本のオーボエの平和な語らいの内に、主への信頼を歌います。
たとえ希望が押しつぶされそうになる時にも
肉と霊が私の内で争いあう時にも
彼は傍らで私を支え
歌詞にはまだ苦悩が残っていますが、もはや救いへの確信が苦悩を消し去っています。ただ、上記の「争いあう」"streiten"は、繰り返し華やかなメリスマで描写されています。
6曲目のコラールは、ただの4声コラールではなく、まるでヴィヴァルディのコンチェルトを思わせるような華やかなリトルネロが主導し、その間にコラールがはさまれる形を取っています。これは第1曲に呼応するもので、作品全体としては、人間の二面性という深刻な主題を取り扱いながら、一方で華やかな管弦楽曲でもあるという、二つの面で聞く人を満足させる作品になっているのです。 この曲の場合、イ短調のコンチェルトが、イ長調で終わるという終止が特に印象的です。(普通の4声コラールでは全く珍しくないことですが。)
(2003年10月13日)
このカンタータも、全曲の録音は5つの全集盤だけです。この他に、最初の合唱曲だけは「バッハ・アリア・グループ」による録音がありました。 これは、アメリカのバッハ学者でありオルガニストである、ウィリアム・シャイデが主催するバッハ演奏団体で、このCDでもアルトのモーリーン・フォレスターやヴァイオリンのオスカー・シュムスキーというような著名な演奏家が参加しています。 1960年前後の録音と思われ、オペラ的発声による1パート1人の演奏です。バッハの音楽を愛する一流のソリストたちが作り出す親密なアンサンブルには、スタイルの古さなど超越した良さがあります。メンバーの都合によるのか、オーボエTの代わりにフルートが使われていますが、これがBWV1044やBWV1050のような響きを作り出していて面白く聞けます。
Harnoncourt 1980 TELDEC Rilling 1981 Hänssler Koopman 1998 ERATO Leusink 2000 Brilliant Suzuki 2000 BIS Bach Aria Group ???? VOXBOX CDX 5127 (BWV 109 /1)
▼この曲でも、レーシンク盤を除くと、あまり優劣をつける気にはなりません。レーシンク盤もアリアでは健闘しているのですが、やはり合唱が弱く、他に選択肢がある場合は、なかなか聞き通すのがしんどいです。最初の合唱曲で、楽譜の指示は"corno da caccia"ですが、代わりにトランペットを使っています。これが全然よくないのですが、アルノンクールもコープマンも"tromba da tirarsi"(スライドトランペット)を使用しています。(こちらは悪くありません)。
リリングはもちろんですが、コープマンも女声アルト(エリザベート・フォン・マグヌス)を採用しています。声の深みはありませんが、スムーズで表現力豊かです。ついでに、コープマンは最初の合唱曲を1パート1人で演奏しています。 この曲の場合、少なくともそれぞれのパートが歌い出す部分は、聖歌隊の前唱者のように1人で歌うのが正しい措置と思います。この合唱曲の場合は、楽器にもsoloとtuttiが指定されており、鈴木盤のように、出だしは1人でそれを合唱で受けるというやり方が一番良さそうです。それはともかく、鈴木盤の第1曲はテンポがちょっとのろく感じ、肝心の" hilf ! "の叫びに全然力が入っていないのが少し不満です。
テノールは、鈴木盤のテュルク、コープマン盤のデュルミラー、どちらもうまいですが、リリング盤のエクィルツは心の深淵を覗かせるような絶唱です。(アルノンクール盤もエクィルツ)。
このテノールのアリアは、アルノンクール、鈴木は、まず音楽の構えをがっちりと作る演奏、リリング、コープマンは、自然な感情の動きが感じられる演奏。鈴木盤は、微動だにしない構えの中に、あちこちひくひく蠢くものがあり、やがて恐ろしい破局に至ると言った趣向で、凄味のある演奏です。リリングやコープマンはもっと分かりやすく、激情のほとばしり、あるいは傷ついた感情の訴えと言ったものを感じました。
アルトのアリアは、コープマン盤ではリュートのつま弾きなども聞こえて、明るく優雅な音楽に仕上がっています。これで良いのでしょう。鈴木盤は何となくせわしなく、リリング盤はリズムの面白さが感じられません。
コラールでは、鈴木盤はそんなに急いでどこ行くの?と言いたくなります。初めは淑女のごとく、終わりは脱兎のごとしですが、ちょっと対照をつけすぎです。 アルノンクールは意外に慎重かつ単調な感じで、テンポものろく感じます。実際にはリリングの方が遅いのですが、流れが良く変化があるのでそうは感じません。コープマンはかなり速いですが、忙しくはなく快適です。
(2003年10月15日)