バッハの教会カンタータ>カンタータ第186番
↓金曜時代劇「五瓣の椿」とカンタータ
「敬神」とはいささか時代がかった訳語で、熊本の 「敬神党の乱」を思いだします。「神を恐れること」ぐらいの方が分かりやすいので すが、一応「バッハ事典」に従っています。
▼さて、これはまた実に分かりやすく、迫力のある作品。
1曲目の合唱曲は、半音階的下降と特異な和音進行が、聞く者に足下が揺らぐような不安を与えます。
そして、マタイ受難曲における弟子たちや群衆の合唱などと同様、それ自体が
完結した合唱曲であるよりは、むしろ問いかけであり、その後の展開を促すよ
うな性格を持っています。歌詞自体が、「汝の神を恐るることに偽善無きや?神に仕
うるに偽りの心をもってせざるや?」というきびしい問いかけです。よく聞くと、
「偽善」「偽り」に当たる単語が半音階的下降で表されることが多い。この異様な響きが当時の
会衆に与えたショックは大きなものだったでしょう。
2曲目テノールのレシタティーヴォ。きびしい口調で、「今日のキリスト教徒」の
「生ぬるさ」と「思い上がり」、「外面だけの敬虔さ」を糾弾します。これらすべて
のことはキリスト教徒にふさわしいことなのか?
「否!」と最後に、決定的な一言。
続くテノールのアリアは、怒りのアリアと言うべきでしょうか。「偽善者は『ソドム の林檎』外観は美しいが中身は腐っている。いくら外見は美しくても、神の御前に立 つことはできない。」この決然としたリズムと、飛躍し続ける旋律。まさに信仰の正 義のために荒れ狂う怒り。
続くバスのレシタティーヴォは、これを受け止めて、諄々と真の信仰のあり方を諭し ていくのです。特に、ここはちゃんと覚えておいてねと言うような箇所は、その度 にアリオーソで歌われ、若干くどい気もしますが、最後の「救いを見出すであろう」 というところで、しみじみとしたメリスマが歌われ、通奏低音もおだやかに動き始め ます。
ここに至るまでの、緊張と弛緩の心理的体験。
5曲目のアリアは、2本のオーボエ・ダ・カッチャがソプラノにやさしく寄り添い、 砕かれた心が透き通った悲しみをたたえながら、ひたすらに神の憐れみを乞う。これ が、ダカーポのaの部分。bの部分では、泥沼に沈むような罪の苦しみが歌われま す。ここでは、「神よ」と呼びかけず、「イエスよ神の子羊よ」と呼びかけられることによって、 贖罪のイメージが鮮やかに用いられています。最後の「泥沼」は徐々に低い音で歌わ れ、絵画的なイメージを形作っています。
今までに何度も同じ事を書いた気がしますが、この"erbarme dich"(憐れみたまえ)という言 葉に、バッハは一体何度作曲したことでしょうか。最も有名なのは、マタイ受難曲 で、ペテロの否認の直後に歌われるアルトのアリアだと思いますが、ともかくバッハ の音楽にとって、通奏低音をなす言葉だと思います。そして、これもいろいろな曲について何度も書きまし たが、このアリアはバッハの最高の音楽の一つです。
最後のコラールは、ソプラノアリアの思いを、もう一度会衆一同で確認するもの。 "erbarme dich"が繰り返されて終わります。
▼このカンタータの演奏は、本当は一つだけあげておきたい気持ちです。実は、上の 文はすべて、ガーディナーのライブ録音(2000年9月)を聞きながらのものです。こ の演奏に関しては、何度か聞く内に、私の心と演奏が完全に一体化してしまって、ま るで自分が歌っているような、自分が指揮しているような(できませんが)気持ちで聞くようになりま した。ともかく、上に述べたような音楽そのものの演奏でした。
ガーディナーは、昨年(2000年)「バッハ巡礼」と銘打って、すべての教会カンタータをバッハ ゆかりの各地の教会を回りながら、1年間で演奏するというとてつもない企画を実行 したのです。ユニバーサルは最初、そのすべての録音を発売するとアナウンスしてい ましたが、途中で計画は縮小。結局、旧録音も含めて12枚のCDが出ただけで終 わってしまいました。しかし、この録音を聞くと、ガーディナーがあらゆる困難な条 件にもかかわらず、空前の成果を上げたと言うことが分かります。少なくとも、この カンタータに関しては、当分これ以上の演奏は考えられません。
(2001年8月9日)ガーディナーのライブ録音が断然良いと書きましたが、その感想は今も変わらず。し かし、他にも良い演奏はありました。
Ramin 1950 Richter 1977 Rilling 1974/1982(No.5) Harnoncourt 1988 Koopman 1997 Leusink 1999 Suzuki 1999 Gardiner 2000
ギュンター・ラミン
戦前から戦後にかけてのトーマス・カントル。ヘルムート・ヴァルヒャやカール・リ
ヒターの師でもある。リヒターがトーマス・カントルに招請されたとき、「誰もラミ
ン以上のカントルにはなれない」と言って断ったそうです。最初の合唱曲はテンポが
2倍の遅さ、ソプラノのアリアはヴィブラート全開、等の違和感はありますが、真摯な表現
には胸を打たれます。少年合唱が非常に芯の強い声、ドイツ語の発音がいかにもドイ
ツ語らしい(よく分からないのですが)。
リヒター
合唱曲は迫力があり、最後のコラールはちょっとしつこい。(いちいちリタルダンド
するのが古くさい)シュライヤーやフィッシャーディースカウはさすがにうまいのだ
が、ちょっとうますぎ。なぜこんな細かい箇所にまで、これだけ細かい表現をしなけ
ればならないのかという疑問を感じます。マティスは真面目な歌で、心にしみます。
リリング
リヒターをのんびりしたような演奏。バスのシェーネは、細かいことにこだわらず、
威厳をもって歌っているのがよろしい。逆に、テノールのエクィルツは神経質に聞こ
えます。いつものクラウスの方が良かった。オジェーはちょっと声を張り上げすぎ。
もう一つ祈りの気持ちが伝わってきません。
(追記:リリングの録音には旧盤と新盤があり、新盤では作品の一部を新しい録音に
差し替えるということを行っています。「掲示板」へのskunjpさんの
投稿によると、旧盤ではカトリーン・グラーフが歌っているようです。2002/12/2)
アルノンクール
最初の合唱では、けっこうまともだと思ったのですが、肝心のアリアがどちらもだ
め。テノールの方はエクィルツがどうこう言う前に、テンポが速すぎてほとんど歌に
ならない。ソプラノも少年には荷が重すぎます。最後のコラールのそっけない気の抜
けた歌い方はどうしようもない。
コープマン
これは良かった。合唱が自然で反応が早く、最後のコラールも自然に音楽の持つ表情
が伝わってきます。テノール(アグニュー)はまあまあの出来ですが、ソプラノ(Ziesak)の
アリアは美しく、祈りの気持ちが伝わってきます。
レーシンク
全体に問題あり。特に少年合唱の悲鳴はかわいそう。テノールはこの中では飛び抜け
て下手。ソプラノ(ホルトン)も、あまりに表情がなさすぎます。
鈴木
全体に整った演奏ですが、なぜこんなに訴えるものがないのだろうか。何度か書いて
いるように、1.合唱に自発性が感じられない。強弱のアクセントが不自然。2.歌
手に表情がなさすぎる。ここでは、桜田、鈴木ともに単に声を出す機械になってい
る。という点でしょうか。技術的にははるかに上なのに、結果としての印象はレーシ
ンクより特に良いとは感じられません。
(追記:鈴木と書いてあるのは間違いで、ソプラノはマイアー・パーソンでした。
今聞き直してみると、上記は言い過ぎかと思いますが、当時はそのように感じたのでしょう。)
ガーディナー
それほど整った演奏ではないのですが、テキストの意味を十分表現した指揮と、それ
に応える合唱・ソリストが素晴らしい。特にマグダレナ・コジナはこんなに素晴らし
い歌手と知りませんでした。メゾ・ソプラノの声の深さが、この場合表現に幅を加え
ていたのかも知れません。
と言うわけで、ガーディナー以外には、コープマンが良く、リヒターとリリングは一 長一短、別格がラミンと言うところでした。演奏者に関しては、その都度、われなが ら一貫性のない評価になっていると思うのですが、正直自分に聞こえたことを書いて いるので、どうしようもありません。ガーディナーなど、以前にぼろかすに書いたこ ともあります。まあ、私の耳がでたらめなのか、それとも、どんな名手でも常に良い 演奏ができるわけではないのか。
▼BWV179の録音は、廃盤は分かりませんが、今のところ以上のものだけのはずで した。ところが、実は他にも同様のものがたくさんあったのです。
というのは、最初の合唱曲とテノールのアリアが、ミサ曲ト長調 BWV236に、ソプラノのアリアが ミサ曲イ長調 BWV234に転用されているのです。こちらの方は、あまり真面目にCDを 集めていませんが、やはりいくつかあります。
BWV 234 Redel 1965 PHILIPS Rilling 1967 INTERCORD Corboz 1974 TELDEC Flaemig 1974 Brilliant Hickox 1977 DECCA Herreweghe 1989 Virgin Rilling 1995 Hässler Cleobury 2000 EMI BWV 236 Winschermann 1969 PHILIPS Corboz 1974 TELDEC Flaemig 1974 Brilliant Hickox 1975 DECCA Herreweghe 1990 Virgin Rilling 1999 Hänssler
主にソプラノのアリアだけ聞きました。それだけを聞いたためか、カンタータより印 象が落ちますが、レーデル盤のアグネス・ギーベルは暖かみのある歌で良かった。他 に、リリングの旧盤(シュパイザー)新盤(シェーファー)が良かったです。歌詞 は、もちろんラテン語で、"Qui tollis peccata mundi"「世の罪を除きたもう主よ」のところが歌われていました。 オーボエがフルートに代わり、低音部を省略したことによって、曲想が一変したのに は驚きました。
(2001年8月11日)
ちょうど1年ほど前のNHKの金曜時代劇「五瓣の椿」。現代的な時代劇ではありましたが、 なかなか見応えがありました。 (公式サイトもあります→ドラマ金曜時代劇「五瓣の椿」)
さて、このドラマの復讐の場面で使われていた音楽がバッハだと気が付いたのは私だけではないと思います。 (「公式サイト」の「感想募集」のページにいくつか音楽に触れたものがあります。)
聞いた覚えはあるのですが、どうも思い出せず、結局NHKに問い合わせて教えてもらいました。
回答は「いと尊き御神よ憐れみたまえ」という曲名と、WPCS-10551というCD番号。ここからさらにいろいろ検索して、
結局、このカンタータの5曲目のアリアだと分かったのです。
ただし、これはクルト・レーデルによってオーケストラに編曲されたもので、原曲とは楽器の使い方も相当違います。
(なかなか思い出せなかったのも、一つにはそのためだったのでしょう。)
このドラマでは、他にストラヴィンスキーの「春の祭典」が使われていましたが、 そちらの方はもう一つ場面とマッチしていると思えませんでした。 それにしても、よくこのような地味な名曲を探してくるものだと感心しました。 実は、レーデルのCDは「オーケストラで聴くバッハ名曲集」というもので、なるほどそういう抜粋盤なら、 製作者の目に留まる機会も多いだろうと納得した次第です。視聴者の感想を見ても、 バッハの方が印象に残ったようです。(たとえバッハとは知らなくても)
このCDも後に購入し、とりわけこの「いと尊き御神よ憐れみたまえ」は愛聴していますが、 一つだけ困ったのは、あまりにドラマでの印象が強かったために、この曲が流れ出してしばらくすると、 「おとっつぁん・・・」というせりふが聞こえて来そうになることです。
(2002年12月1日)