バッハの教会カンタータ>カンタータ第60番
Doverの"Seven Great Cantatas"より、これで6 曲目です。前回のBWV46と同じく、バッハのライプチヒ着任の年です。
▼この曲はまた趣向が独特で、擬人化された「恐れ」(Furcht)と「希望」(Hoffnung) の対話という形を取っています。アルトが歌う「恐れ」とテノールの歌う「希望」 は、激しく相克しながら、容易に交わることがありません。しかし、それぞれの曲 は、必ず「希望」の側で終わるように作られています。そして、最後にイエス自身が 「恐れ」に語りかけ、「恐れ」は自ら恐怖に打ち勝ち、希望と安らぎを歌うという結 末となります。テキストの弁証法的な構造が、バッハの劇的な表現を得て、実に説得 力豊かな作品となっています。特にこの曲は、テキストを理解することによって、初 めてその真価を理解できるものと思います。
なお、第5曲のコラールは、アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲に引用されて有 名なものです。これは20世紀の傑作ですが、ベルクがいかにバッハを心の糧として いたかが分かるようです。
▼第1曲、アリアとコラール。合奏は弦の細かい音符で始まり、それに2本のオーボ エ・ダモーレがからんでいく、緊迫感に富かつ近代的な響きを感じます。やがて、 「恐れ」が標題のコラールを歌い、対して「希望」はそれを激しくうち消して、救い を待ち望むアリアを歌い、両者は最後まで協和することがありません。
第2曲、対話によるレシタティーヴォ。アルトとテノールが同時に歌うことは決して なく、「恐れ」と「希望」はますます溝を深めるかのようです。ここでは、特にアル トが"martert"(責め苦にかける)を3小節のメリスマで歌うところ、これに対し て、最後のアリオーソの部分でテノールが"ertragen"(堪え忍ぶ)を3小節半のメリ スマで歌うところが対照をなしています。(アルトの半音階的な旋律とテノールの輝 かしい長調の対照!)
さて、第3曲2重唱によるアリア。オーボエ・ダモーレとヴァイオリンが全曲を彩り ますが、ここでも両者の楽想の違いが際立っています。同じことがアルトとテノール にも言えます。物語の方は、死への恐怖と死の安息という二つの観点に分かれたまま です。
第4曲、アルトとバス。レシタティーヴォとアリオーソ。ここで、「恐れ」に対し て、キリストが三度語りかけます。「死人は幸福なり」「主にありて死ぬる死人は幸 福なり」「今よりのち主にありて死ぬる死人は幸福なり」と。「恐れ」はようやく自 ら希望を見出します。この対話は、「魔笛」のタミーノと話者を思い出させるもの で、「魔笛」の場合と同様、バスの単純でかつ深々とした表現に心を奪われます。
そして、第5曲のコラール。主にある死の安息を歌うものです。冒頭に出てくる増4 度は「リディア旋法」によるものということですが、今聞くと実に大胆。以後の和声 付けも実に大胆で、アルバン・ベルクの現代的な引用と何ら違和感がないのが不思議 です。このあたりにもバッハの大きな魅力があるのでしょう。
▼なお、この日の礼拝で読まれる聖句は、マタイによる福音書第9章18〜26節 「会堂司の娘がイエスによって生き返る」という場面です。周知のように、ベルクのヴァイオリン協奏曲は、 アルマ・マーラーの娘マノンの若き死に対する挽歌として書かれたものです。 そうすると、ベルクの引用は、何重にも意味を持った引用だったのだという想像も可能なわけです。
音楽を純粋かつ絶対的なものと考えて、演奏の場面やテキストの意味などに重きを置かない 立場もあります。しかし、実際にわれわれが音楽を聞くとき、自らの体験・知識と想像力に応じて 音楽を聞いているのであり、表題、歌詞、その作品の背景などのついて「知っている」ということは、 決して音楽的に意味のないことではないと思います。バッハ自身、そういうことを当然「知っている」会衆を 対象に音楽を書いていたのです。音楽の感動というものも、決して 「純粋な」音響が聴覚を通じて直接的に脳髄に与える作用というものではないということです。
▼演奏は、リヒター、リリング、アルノンクール、コープマンなどです。
アルト 1曲目のアルト演奏の善し悪しは別にして、以上のような違いがありました。私としては、この曲の 落としどころはキリストの語りかけにあると思います。その点で、一番心にしみたの はリリング盤でした(バスはフッテンロッハー)。ついで違和感なく聞けたのはコー プマン盤(バスはメルテンス)。全体の出来も、この二つが良かったようです。リヒ ター盤も悪くはないが、今ひとつ心にしみませんでした。
(2001年4月22日〜26日)