バッハの教会カンタータ
>カンタータ第89番
合唱団の骨休め。楽器も最初はオーボエ、弦楽と通奏低音だけのつもりだったのが、間際になってホルンを追加したようです。
当日の礼拝の聖句は、マタイ 18:23-35。 王が決算をしようとするが、巨額の負債を負った家来を憐れみ、それを帳消しにしてやる。ところがその家来は、同僚に貸したわずかの金を返せと「首を絞め」、同僚を牢獄に入れてしまう。王は怒って、その家来を牢獄に入れると言う話です。 この部分の聖句は、そのままは歌詞に採用されていませんが、レシタティーヴォやアリアの歌詞に"Rechnung"(請求書)等々、計算に関する単語がいやによく出てくるのは、そのためでしょう。
▼第1曲バスのアリアは、上記とは直接関係のない、旧約聖書の聖句をそのまま歌詞にしています。
ホセア書 / 11章 8節
ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。(新共同訳聖書より引用)
(なお、「エフライム」はイスラエルの別称、「アドマ」「ツェボイム」は、ソドムとゴモラの滅亡の時、同時に滅んだ都市の名です。)
上の1行毎に、最後はフェルマータで語られるように結ばれ、新たな旋律で次の行が歌われるという、アリオーソの形式を取ったアリアです。
当初は、通奏低音の上に弦と2本のオーボエと言う楽器編成だったらしいのですが、後にホルンが加えられました。 鈴木雅明の解説によると、このカンタータはパート譜のみが残されており、ホルンパートのみがバッハの自筆で記されているが、使用されている紙の透かしは同じものなので、初演の直前にホルンパートが加えられたのではないかと言うことです。
ホルンを加えた版と除いた版、どちらも聞きましたが、ホルンを加えた効果は絶妙で、このアリアの大きな魅力と言えるでしょう。
▼第2曲アルトのレシタティーヴォは、当日の聖句(マタイ 18:23-35)の内容を敷衍したような歌詞で、隣人への憐れみを持たぬ者への神の裁きの厳しさを述べます。
続くアルトのアリアも、意味は同様の歌詞ですが、通奏低音の雄弁さが印象に残ります。 声と通奏低音が、ちょうど鍵盤曲のインヴェンションやデュエットのような2声を形作るのです。また、どこに行くのか分からないような調性の不安定さが、神の裁きの厳しさと、それにおののく人間を表しているかのようです。
▼4曲目ソプラノのレシタティーヴォは、神への負債がイエスの血によって贖われる(請求書が支払われる)ことが述べられ、最後はアダージョとなって、信仰による安らぎが深々と歌われます。(この部分、このカンタータの中でも特に印象に残るところ。)
そして、5曲目ソプラノのアリアでは、やっと今までの重苦しさが消えて、オーボエ、通奏低音がソプラノと軽やかなトリオ・ソナタを作ります。女声の二つのアリアは器楽曲的です。
▼最後のコラールは、簡素な4声コラールに、全ての楽器が重ねられるという形です。今回合唱の出番はこれだけでした。
(2004年2月29日)
さて、演奏ですが、以下のものを聞きました。
Rilling 1977 Hänssler Leonhardt 1979 TELDEC Koopman 1998 ERATO Leusink 2000 Brilliant Suzuki 2000 BIS Ameling 1983 EMI (Aria)
▼最初のアリアは歌詞からしても「熱い思い」が伝わらなければおかしいわけで、その点納得できるのはリリング盤(フッテンロッハー)とコープマン盤(メルテンス)でした。 リリングは畳みかけるような速いテンポとフッテンロッハーの強靱な歌唱で、コープマンはメルテンスのニュアンスに富んだしみじみと暖かい歌唱で。鈴木盤もナチュラルホルンの音色が特に耳を惹き、引き締まった演奏です。
(なお、コープマン盤はホルンなしとホルンありの二つの版を収録。レーシンクはホルンなしで演奏しています。)
▼アルトのアリアは鈴木盤のロビン・ブレーズは声がもう一つですが、通奏低音とのデュエットはスリリングで、チェロの雄弁さだけでなく、オルガンが第3の声部を作るように動き、面白く聞けます。 コープマンの場合はむしろオルガンがチェロの効果を消すように働いているようです。 レオンハルト盤はオルガンが目立たずに動き、この方がアルトとチェロのデュエットが明確になります。エスウッドの声も含めて、一番聞きごたえがあると思います。
▼次のソプラノは、リリング盤オジェーの格調高く真情のこもった歌唱が飛び抜けています。鈴木美登里やレーシンク盤のホルトンの少年のような澄み切った声も魅力はありますが、むしろレオンハルト盤の少年は、苦しいところもありますが、とても良く歌っていると感心します。 なお、このアリアは単独でアメリングも歌っており、しみじみした喜びにあふれた曲の魅力を十分に味わわせてくれます。
(2004年3月7日)