カンタータ第182番《天の王よ、汝を迎えまつらん》バッハの教会カンタータ(9) BWV182 (ワイマール時代4)
カンタータ第182番《天の王よ、汝を迎えまつらん》BWV182 BWV 182「天の王よ、汝を迎えまつらん」は、ワイマール宮廷楽師長(要するに コンサートマスター)に就任したバッハの最初の作品です。宮廷楽師長 就任に伴って、バッハは月に1曲、新作のカンタータを演奏することが仕事に なったのでした。その第1作ですから、バッハ自身相当力を入れたものと想像さ れます。 初演の1814年3月25日は、「棕櫚の日曜日(枝の日曜日)」と言って、ちょうど 復活祭の1週間前になります。つまり、イエスはユダヤ各地で伝道して多くの 信者・弟子を得た後、首都エルサレムに入り、やがて十字架にかけられるの ですが、キリスト教の暦では、エルサレム入城を「棕櫚の日曜日」とし、その週 の金曜日を受難日、次の日曜日を復活祭としているわけです。 聖書では、いくつかの 伝えがありますが、ヨハネ伝によると、人々が棕櫚の枝を手に持ってイエスを歓 迎したとあります。また、マタイ伝やマルコ伝によると、人々が道に上着を敷い たり、葉のついた枝を敷いたりしてイエスを歓迎したと言います。こういうこと で、イエスのエルサレム入城記念の祝日を「棕櫚の日曜日」または「枝の日曜 日」というようです。 なお、今年は4月23日が復活祭ですね。「春分の次の満月の次の日曜日」とい う複雑な決まりになっているため、毎年日付が変動するのです。今年は春分=満 月のため、一番復活祭が遅い年となるのでした。 ▼さて、BWV 182です。この曲は耳にたこができるほど聞いたのですが、いっこ うにイメージがまとまりません。イエスのエルサレム入城の場面は、聖書を読ん でも、のどかで、かつ華やかな箇所です。イエスが「平和の王」として、ロバに 乗ってエルサレムに入るというのどかさ、そして人々がそれを歓呼して迎える華 やかさ。しかし、それは同時に受難の始まりでもあるわけでなので、決し て華やかなだけでは終われないのがバッハの信仰の立場です。 そのような複雑な場面に加えて、おそらくはバッハの気負いもあり、曲の構成 は今までのような悩みから救いへというような分かりやすいものではありませ ん。 ▼最初の「ソナタ」はヴァイオリンとリコーダーによる素朴でのどかな音楽。こ のあたりは「ロバに乗って」という場面を想像させます。2曲目の合唱も、いか にも「天の王よ、汝を迎えまつらん」という言葉そのものの、歓呼の声。 ところが、第3曲のレシタティーヴォから、一転して受難がテーマとなり、続 く3つのアリア(バス、アルト、テノール)で、徐々に暗〜い雰囲気が支配しま す。バスのアリアは、まだイエスの犠牲は人類への愛であるというようなことを 歌っていて救いがあり、バックの弦楽合奏もなかなかききごたえがあるのです が、アルトになるともういけません。無伴奏フルートのパルティータにちょっと 雰囲気が似た、リコーダーのオブリガートが、非常にとりとめなく、アルトの暗 い歌の周囲をさまようと言った、陰惨とも言える曲が10分近くも続くのです。 初めて聞いたとき、私はこの10分間をひたすら耐えるほかありませんでした。 テノールのアリアも、劇的と言えばそうも言えるが、非常に流れの悪い音楽で す。 第7曲の合唱曲になって、やっとそこから抜け出し、ちょっと古風で雄大な合 唱が展開されます。最後の第8曲の合唱曲になって、やっと最初ののどかさ、の びやかさが戻ってきて、全曲をしめくくるのです。 ▼このように書くと、非常に支離滅裂な曲という感じがしますし、私自身しばら くそう思っていました。この曲のポイントは何と言っても、5曲目のアルトのア リアです。ここに魅力が感じられなければ、全てが台無しになってしまいます。 残念ながら、私が聞いた4種類の録音のうち、この部分にはっきりとした魅力を 感じることができたのはアルノンクールのものだけでした。他の3つの録音で は、特にリヒター盤と鈴木盤で、このとりとめのなさが強く出て、ダカーポで はため息が出ます。コープマン盤ではリコーダーのフェアブリュッヘンの名技が 救いですが、音楽そのものとしてはアルノンクール盤に及びません。 アルノンクール盤では、アルト(カウンターテナー)のポール・エスウッドの 端正な声と、フラウト・トラヴェルソの的確な演奏が緊密にからみ合って、バッ ハならではの音世界を再現しています。もともとの楽器指定はリコーダーです が、ここではフラウト・トラヴェルソの採用が成功しているようです。他の点 でも、アルノンクール盤は文句なし。また、コープマン盤もいつもなが ら合唱が非常にうまく、リコーダー、ヴァイオリン、チェロなども非常にうまい (チェロはヤープ・テル・リンデン)。この曲に関しては、リヒター盤はなぜか ほとんど魅力を感じません。鈴木盤はコープマンと傾向は似ているものの、合唱 も楽器もそれぞれ一歩及ばない感じです。 ▼と言うわけで、今回はなかなか難曲でした。次回は、ワイマール時代の復活祭 に関連する残りの作品、BWV12(1714),BWV31(1715)あたりを取り上げたいと思い ます。 (2000,3,19執筆) 大阪で、礒山雅先生のレクチャーによるレコードコンサートがあり、その時に伺っ た話ですが、ヘレヴェッヘの日本(大阪)公演について、特に児童合唱に 問題があったと言うことでした。その理由として、「ちょっと語弊があるかも知れな いが、少女は良くないのでは」−−少年合唱の金属的な響きが、少女が混じることに よって失われてしまうのではないか、というご意見でした。 (中略) ところで、「バッハの教会カンタータ(9)」で、BWV 182「天の王よ、汝を迎えま つらん」、特にその5曲目のアリアが分からんと嘆きましたが、ある録音を聞いてヒ ントがつかめたという気がしています。このCDの一部は、TELDECのBACH2000にも収 録されているのですが、次のようなものです。
PSALM51: Parodia dello Stabat Mater di G.B.Pergolesi
ARS ANTIQUA AUSTRIA DIR. GUNAR LETZBOR SYMPHONIA SY 95139 (1996) よく分からないので、原文のまま書きましたが、要するにバッハがペルゴレーシのス ターバト・マーテルを編曲したもの(BWV 1083、BACH2000に収録)と、上のBWV 182 の2曲を収録したもので、オーストリアの古楽器グループと少年聖歌隊による演奏で す。ペルゴレーシとバッハという関係も大変興味のあるものですが、それはおいて、 このカンタータの演奏は非常に説得力のあるものでした。ソプラノが少年なのは当然 として、アルトも少年なのです。第5曲のアリアにおいて、少年アルトの硬質の声と リコーダーの音がぴったりとマッチし、澄み切った音の世界を作り出しています。こ れを聞いていると、何を難しく考えていたのか、よく分からなくなります。 前の文章で、特にリヒター盤と鈴木盤が良くないようなことを書きました。リヒター 盤はアンナ・レイノルズ、鈴木盤は米良美一ですが、女声アルトの柔らかい声や米良 美一の芯のない声が、この曲のイメージを作る上でマイナスに働いたのでしょうか。 人生の限られた時期だけに許された少年の声、熟練と完成と言うことを許されない 声、その魅力にとりつかれてしまいそうです。 (「少年の声」2000,6,11執筆)
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