BWV4「キリストは死の縄目につながれたり」


バッハの教会カンタータ (4) BWV4 (ミュールハウゼン4)
January 31, 2000

カンタータ第4番《キリストは死の縄目につながれたり》BWV4
Christ lag in Todes Banden
1708 orそれ以前 復活節第1日

バッハの教会カンタータシリーズ、ミュールハウゼン時代の最終回として、BWV 4「キリストは死の縄目につながれたり」を聞きます。

▼この曲を聞いて思うのは、ここに来て、バッハの新しいステージに立ち会って いると言う思いです。もはやわれわれに残されているのは、感嘆し感動する他に ないかのようです。もちろん、実際にはさらに驚くべきものを見ることになるの ですが。

この曲は、コラール変奏曲という、バッハの他のカンタータには見られない形式 をとっています。すなわち、マルティン=ルター作曲の讃美歌の歌詞をそのまま 使用し、これを主題として声楽による変奏曲に仕上げているのです。ただし、こ れは、パッヘルベルなどの過去の楽匠から受け継いだ手法です。また、バッハ自 身も、オルガン曲のコーラル・バルティータ(BWV766〜771)を同様の手法で作曲 しています。

ルターの讃美歌は、キリストの十字架の死と復活、生と死の戦い、生の勝利と人 類の救いと言った内容を力強く歌ったもので、標題からは受難の曲と受け取れま すが、復活祭の礼拝のために作られたものです。歌詞の内容はキリスト教の教義 そのもののようなものですが、音楽の内容は宗教を問わず伝わるものでしょう。

▼曲は、悲愴な弦楽合奏で始まります。このわずか14小節の間にどれだけの思 いが心をよぎることか。なお、14という数字はBACHを表すそうです。アルファ ベットを、Aは1、Bは2、Cは3と言う具合に数字に変換してBACHを合計する と14になるわけです。バッハの音楽には、この種の数による隠された象徴が多 く存在しているそうです。ただし、余り深読みしすぎるとこじつけになります が。昔の名匠が目立たないところにちょっとした細工をしておき、分かる人には 分かるだろうという姿勢でしょう。

続いて、合唱、二重唱(ソプラノ/アルト)、独唱(テノール)、合唱、独唱 (バス)、二重唱(ソプラノ/テノール)、合唱、という対称構造により、曲は 展開していきます。そして、すべての曲を、ルターの讃美歌のメロディーが貫い て行きます。

2曲目の合唱は全体の総括とも言うべき力のこもったものです。3曲目は死が人 間をとらえるという暗い内容を歌っている割には、清澄なデュエット。 4曲目のアリアはキリストの十字架死により死がその力を失うと言う内容を劇的 に歌っていますが、特に「いまやただ死の形骸を残すのみ」(杉山好訳)と言う 行の「死の形骸」(Tods Gestalt) の直前の完全休止は思わず息をのむ効果を上 げています。そして、5曲目の合唱は、生と死の戦いが激しく競い合う対位法に よって描かれて見事。

6曲目のアリアは演奏によっては、非常に劇的な内容が感じられます。7曲目に なって、やっと明るい復活祭の雰囲気が感じられ、最後の合唱は、ルターの讃美 歌がまっすぐな姿(その和声法は非常に精妙)を現して全曲を閉じます。ただ し、このように讃美歌をしめくくりにするというのは、後のライプチヒ時代の様 式であり、この曲もライプチヒ時代(1724/25の再演時)に付け加えられたもので す。

全曲を聞き終わって、死から生へという感動が伝わってきます。時間にすれば20 分程度のものですが、大作というイメージは変わりません。

▼復活祭と言えば、子どもの頃に日曜学校で、きれいな色に染めたゆで卵をもら うのが楽しみでした。意味はよく分からないながら、時は春、新しい命の息吹を 子ども心にも感じたものです。(復活祭=イースターは春分後最初の満月の次の 日曜日と決められています。2001年は4月23日)

▼演奏は、やはりカール・リヒターによるものが最も強い感動を与えます。バス 独唱以外すべて合唱曲となっているのは、曲本来のあり方ではないようです。し かし、その結果、フィッシャー・ディースカウの独唱がひときわ重要な意味を持 つことになります。この独唱は、部分的にはまるでシューベルトのリートを聞く ような深い心理描写が感じられ、鳥肌が立つような感動を覚えます。フィッ シャー・ディースカウは、1951年にもフリッツ・レーマンの指揮で同曲を録音し ており、ここでも深い歌唱を聞かせてくれますが、曲全体の緊張感ははるかにリ ヒターに及びません。ただし、この独唱曲の歌詞は最も難解で、旧約聖書の故事 を知らなければ理解しにくい、象徴的なものです。

古楽器による演奏では、やはりコープマンが自然な音楽の流れと、生き生きした 合唱の魅力で優れています。また、初演版と再演版の両方を収録しており、興味 があります。アルノンクールの演奏もきびきびしたもので、独唱者もうまく、悪 くありません。しかし、ガーディナーの演奏は、私の感じでは、力を入れるべき ところで変にさめており、自然に流れるべき所に変なアクセントがあり、どうも 楽しめませんでした。

▼さて、最後にこの曲の作曲年代について、コープマン盤の解説(クリストフ・ ヴォルフ)では、バッハがミュールハウゼンのオルガニストに応募した際の試験 作品であろうとしています。しかし、この曲の成熟度から、もっと後の時代とす る意見もあります。標題は「ミュールハウゼン4」ですが、次のワイマール時代 の作品という可能性もあるわけです。全くの素人の感覚ですが、この曲の重厚さ は、今までに聞いた4曲とは少し段階の違う作品という気がします。もっとも、 今までに聞いた4曲も、年代の確実なのはBWV71だけで、他は推測にすぎないの です。

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「過越の子羊」

(はじめに書いた文章に対して、ニュースグループの読者から、次のような質問があ り、それに答えて書いたものです。)

> それから、バスのアリアにある、過ぎ越しの小羊の由来等知りたいですね。 > 神の小羊の由来と同じだと思いますが....。

さて、歌詞の意味について書くと、よけいに長くなるので、控えていたのです が、「過越の子羊」のことだけでも書いてみたいと思います。 (BWV4、第6曲バスのアリア、重訳ですが一応独自訳で)

ここにまことの過越の子羊がある
それは主が命じられたものだ
それは十字架の柱高く
熱き愛の中に燃えさかる
その血はわれわれの戸口に印となり
その信仰は我らを死から守る
殺戮者はもはや我らを害することができぬ
ハレルヤ!

まず「過越の子羊」です。これは、昔の「十戒」という映画を見ていただくと一 番良いのですが、ヘブライ人がエジプトを脱出するときの故事です。ヘブライ人 は、その先祖ヤコブ(別名イスラエル)の12人の子がエジプトに移住して以来 繁栄するのですが、やがてエジプトの新しいファラオの政策で、民族まるごと奴 隷の境遇に落とされて苦しみます。神ヤハウェはモーセに命じて、ヘブライ人を エジプトから脱出させようとします。

ファラオは頑強にヘブライ人の解放を拒み ますが、モーセは神の力によって、エジプトにあらゆる災厄を与え、解放を迫り ます、(災厄とは、蛙の害、疫病の害、雹の害、蝗の害などです)。ひどい災厄 を与えられる度にモーセに向かってヘブライ人の解放を誓うファラオですが、災 厄がおさまると、すぐに心変わりをして、またもや解放を拒みます。そこで神ヤ ハウェが最後に与えようとした災厄が、エジプト中のすべての初子の命を奪う というものでした。その際、神はヘブライ人には災厄を与えないために、子羊を 屠ってその血を戸口に塗るように命じます。

そうすれば、神の遣わす殺戮者は、 それを印としてその家を「過越」すと約束するのです。同時に神はヘブライ人に 対して、この日を大いなる勝利の日として記念するように命じるのです。

これが、イスラエルの「過越の祭」の起源ですが、キリストの受難がこの「過越 の祭」と時期的に重なったため、(マタイ受難曲の冒頭に「祭りの間はいけな い。民衆の中に騒ぎが起こるかも知れない」という合唱があるのはこのことで す)今度はこの「過越の子羊」と「神の子羊」が重なって行くわけです。

つまり、子羊が屠られることによって、その血が人の命を救う、という話と、キリス トが人間の罪を背負って十字架の死を遂げるという話がかさなり、過越の子羊の 血が十字架の柱高く焼かれる血の印とイメージが重なります。また、神の過越に よって命を救われた故事と、主イエスキリストの死によって、人類が罪から救わ れ永遠の命を得るという信仰が重ね合わされるのです。

新約聖書、すなわちキリスト教の信仰は、すべて旧約聖書によって予言されたこ との実現という考え方をとっていますから、古い時代の荒唐無稽な民族救済物語 が、キリスト教の救いという意味でとらえ直されるという、複雑な構造をとりま す。

そして、バッハ時代の聴衆は、こういう話に子どもの頃から親しんでいた人 ばかりでしたから、ちょっとした象徴的な言い回しをも、直接に心にふれるメッ セージとして感じたに違いありません。バッハの音楽が、当時の人々にどのよう に受け取られたかと言うことを考える時、やはり歌詞の内容は重要だと思うわけ です。

しかし、率直に聖書を読んだ時、過越の話から、血なまぐさい民族紛争と、虐殺 の匂いが漂って来るのは、時代背景からしてやむを得ないところでしょう。

(2000年2月3日執筆)


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